無邪気さに傷つくとき

人と深く関わる中で、傷ついたり、傷つけたりというのは避けられないことだ。自分が良かれと思ったことでも、相手は嫌な思いをしているかもしれないし、相手が自分を思ってしてくれたことも、ひねくれて受け取ってしまうこともある。

昔読んだ江國香織さんのエッセイの中に、とても好きな言葉があって。それは、「傷つく」というのはどこまでも自分が主体の行動であって、「傷つく」はあっても、「傷つけられる」ということはない、というもの。

要は、傷つくときは勝手に自分が「傷ついている」のであって、相手に「傷つける」という意図はない。もちろん故意に「傷つけてやろう」と思って意地悪する人もいるかもしれないけど、それだってそれによって「傷つく」ことを決めているのは自分。つまり、「傷つく」ってどこまでも主体的な行為なのだと。

これにわたしは深いところで納得して、以来、「傷ついた」と思うことがあったら、少なくとも相手に傷つけられたのではなく、自分が傷つくことを選んだのだと捉えるようにしている。そうすることで、一方的な被害者になることは防げるから(被害者意識って本当に厄介というか、そこを盾にすると何でも成り立ってしまうから注意が必要だと思う)。

それで、わたしの中で繰り返している「傷つく」パターンがあって、でも、言わずもがな相手にわたしを傷つける意思はまったくなくて、そのピュアさ、無邪気さにわたしは勝手に傷ついているという構図。

相手に非はない(まぁ、視点をどこにおくか、価値観によってはそうでもないとも言えるかもだけど)ゆえに、自分でもこんなことで傷つく自分が悪い、みたいな気持ちになってしまって、この感情とはなかなか折り合いをつけることができない。

人間として生きている以上、自分勝手な思いはあるものだし、自分の都合に沿わない現実や人を疎ましく思うのは当然でもあって。それを自覚するだけでもいいのかなぁ、できれば手放したいなぁと思うけど、これって生存本能とも密接に結びついているのかもしれないな。大きくとらえれば、自分の生命がおびやかされる危険さえ感じているのかも、と、今気づいた。

人がもつ「無邪気さ」ってその人本来のものだし、一番キラキラしていてきれいなところ。だからこそ、それを否定したくないし、でもわたしはそこに傷ついてる・・・みたいな終わらないループ。。笑

でもまぁ、これは受け入れるしかない類のことなのかな。

とりあえず、一度ちゃんと文章にできてよかった?

今日も良い一日をお過ごしください?

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