「わたし」が映す世界

「機が熟す」という概念を、わたしはヨガを通して学んだように思います。

もともと飽きっぽくて、忍耐を知らないような子どもだった(と自分では思う)のですが、

ヨガの練習を通じて、ただ続けることがもたらすパワーを知りました。

良くも悪くも、「習慣」がその人をつくります。

日頃考えていることが立ち居振る舞いや、人との接し方に表れて、

それがすなわちその人の住まう世界を形成します。

みんな、それぞれの世界を生きているとわたしが真に思うのは、

「わたし」の前に現れた瞬間に「あなた」はわたしの気配を反映し、

おそらく姿を変えるから。

表情も、言葉も、目の前の「わたし」が発する気分や色合いを瞬く間に反映するから。

無意識のうちに。

だから結局、「わたし」は「わたし」を通してしか、

世界を認識できないのだ(と、気づいた瞬間に、ちょっと絶望したのだけど)。

だからその「わたし」という入れ物をなるべくクリアに、きれいに、

見る人をそのまま映すくらいピカピカにしたいなと思う。

で、以前はそういう、エゴを剥いで、剥いで、みたいな行為って、

無個性のつまらない人間になってしまうんじゃないかと訝しがっていたんだけど、気づいた。

剥いで、剥いで、いくごとに、それでも決して剥ぐことのできない、

もともと持っているわたしの命はかえって強く立ち上がるのだと。

「真実は矛盾する側面を持っている」と、

哲学者であり科学者でもあるティモシー・フリークさんは著書の中で語っていたけれど、本当にそうなのです。

アーサナの練習を通して体の癖をほどいて、除いて、

万物に共通する真理を目指しながら、まっさらな自分になる。

と同時に、それでもほどけない、除けない、

わたしだけの真理がくっきりと浮かび上がってくる。

そのどちらも楽しくて、大好き。

で、結局、「機が熟す」なんだけど、日々の練習で起こることって、日進月歩にも見える微々たる変化。

だから、コツコツ続けられる人は少ないし、「家で練習して、何か変わりますかね?」という疑問にもつながる

(わたしは断言するけれど、変わるしかあり得ないのです)。

でも、どんどんまっさらになっていく心や体を使って、

精いっぱい毎日を生きていれば、その、あなたが大切にしている夢や願いの種は着実に自分の中で育っていて、気づけば目を離しているすきに、

ふっと花開いていることがあるんです。

飽きっぽくて、忍耐を知らなかったわたしのままだったら、

たぶん信じられなかったいろんなことを、「それでも、着実にいい方向に向かってすべては変化している」と信じることができるようになったのは、

ヨガを通して、そういう変化を目の当たりにしてきたから。

何も動きがないように見えるときでさえ、見えないところでは変化し続けているのです。

だからわたしはヨガを伝えることで、ヨガそのものやその歴史に恩返しをしたいし、

誰かの生きる世界に光を灯すことができたらいいな、と思う。

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